この話題で友人と議論になった。議論の流れは省くが、結論から書くと以下のようになるようだ。
それは彼が坂東氏のコラムの内容の中で共感できる部分があるとのこと。
どの点かというと、坂東氏が
「『捨てる』という選択肢を全く考えていないこと」
だという。
この坂東眞砂子「子猫殺し」コラムについての私の意見は本頁の他に
[雑記] 1.「自然の中で生きる」とは?
https://blog.stakasaki.net/article/200608article_13.html
でも書いている。
また他の方が書いたブログ記事の紹介、関連リンク集などを
坂東眞砂子氏コラム「子猫殺し」関連のまとめ
にまとめており、そこでの紹介、分類もある程度、私の意見を反映したものと言えよう。
なお板東氏の元記事についてはこちらに転載してある。
閑話休題。
議論をした友人が抱いたコラムへの共感とは。
すなわち、猫や犬を捨てて野良猫の原因にするような人間、社会に対して非常に無責任な人間がわんさかいる。そのような人間達がくさるほどいるにも拘わらず、彼女・坂東真砂子氏はそのような行為(猫を捨てる行為)を微塵とも自分の選択肢の中に入れていない、そのような姿勢への共感だという。
「猫を捨てる」という行為は「猫を殺す」という行為と並列に並べることの出来るくらい、あまりに社会に対して無責任なひどい行為であり、他人や社会に対して迷惑をかける行為である。
そういう前提に立ったとき、殺す行為の方もそれなりに評価出来る、ということらしい。
彼が提示したい問題は、極論化した仮定を設けて考える方が分かりやすいようだ。(それには彼も同意した。)
すなわち、ここに子猫が生まれてしまって、しかも貰い手がどんなに努力しても見つからなかったらどうするか。
捨てるか、殺すか。その二者択一だった場合、どうするか。そういうシチュエーションである。
あなたならどうする?
議論の中で最終的に私は「殺せない」と述べた。繰り返し言うまでもなく、貰い手を探すこと、自分が飼う努力をすること、それらをしても、その道が見つけられないとなった場合、私だったら「捨てる」だろう。
それに対して彼は「殺す」方を選ぶらしい。
(彼は「これは自分が猫を飼ったことがないからかもしれないが」と控えめに述べていたし、自分自身、実際にそのシチュエーションに立たされた際、断固としてその道を選ぶ決意出来る確信があるわけでもないようであったが。)
猫を飼ったことがある、そして猫が大好きな私は、上のようなシチュエーションだったら殺さないし、殺すくらいだったら捨てるだろう、と結論づけた。
(なお、この「殺さない」は「殺せない」なのかどうかは自分でも分からない。)
殺すくらいだったら捨てる、私がそうする理由を2点挙げる。
(これらの理由が「殺せない」のではなく「殺さない」理由とも言い替えられよう。)
第一点。
「捨て猫」が行き着く可能性として大きい「野良猫」の存在に関し、それが人間社会にとって必ずしも絶対的な「悪」だという意見を、私・高崎は思っていない。
私も人間が猫や犬を捨てるという行為についてはとても怒りを覚える。
私の実家では3匹の猫を飼っていたが、その3匹目の猫というのは私の家の前に捨てられていた猫だ。猫を飼うなんて1匹や2匹で十分だと思っている身としては、押しつけられた3匹目など、手放しで喜べるはずもない。捨て人のその身勝手な行為に対して怒らないわけがない。
だから「猫を捨てる」という行為についても人並み異常には嫌っているはず...なのであるが、一方で「野良猫」の存在を絶対的に悪だとは思っていない。
その理由は
[雑記] 1.「自然の中で生きる」とは?
https://blog.stakasaki.net/article/200608article_13.html
で書いたスタンスに関係しているが、野良猫(とりあえずここでは猫に限っておく)も人間社会、いや、正確に言えば人間生態系とでも言おうか、そういう中の一部だと考えているのだ。
無論、それは一定数以上は保健所が殺しているのを含めた上で存在するものかもしれない。それでも良い。一定数までは保健所が殺さなくても、人間社会(人間生態系?)の中で猫が飼い主なしに存在すること、そのこともまた飼い猫達と同じ、人間との共生(もっと言えば人間社会との共生)と考えているのである。
その結果、野良猫というものの存在を結果的に認めている、それは全肯定ではなく、むしろ必要悪的なものとして考えているわけであるが、そういう私としては、その有力候補である「捨てる」をする行為も「殺す」並に問題的な行為とは考えられないのである。
以上が私が「殺さない、殺すくらいなら捨てるだろう」という理由の第一点。
以下の理由が第二点。
それは「生き物を殺す」という行為は、個人の手から極力遠ざけられるべきものである、と考えているからだ。
人間は集団で生き、社会を作り、その中で分業を行う生活を築いてきた。分業の意義にはいろいろあると思うのだけれども、個人の手に委ねるよりも専門家に任せた方が良い分野があり、その代表が「生き物を殺すこと」だと思うのである。
代表的には人間に対するソレがあるのは言うまでもない。すなわち、人を殺す権利である。
分かりやすい話で言えば刑法というものの存在。それはもともと、「復讐」というものの権利を個人から奪い、社会の中で行う為に出来たと考えて良いと思っている。すなわち、殺したいほど憎む人間がいるからといって、その権利が安易に個人に持たされるべきではなく、その判断は社会に任されるということだ。
世の中には、殺したいほど憎々しい人間というのは存在すると思う。そしてそれは時には達せられるべきだと思う。
だから私は死刑制度には賛成だ。私は昔から死刑制度には賛成で、この問題については納得できる意見があれば転向させられても良いと思っているのだが、幸か不幸かそのような意見を読んだことがない。
しかし許されるのはあくまで社会制度の中の死刑であって、個人の権利からは「人を殺す権利」は奪われるべきものだと思っており、だからこそそれを司法が肩代わりすることに全面賛成なわけで、話を戻せば「人を殺す」という行為も、個人の手に委ねるより、社会分業の一つにすべきだと思っているわけである。
ではなぜ「殺す」という行為をを社会分業にすべきかと思っているかというと、それは「憐れ」「情け」という気持ちを持つのは感情を持った人間の、人間らしい素質であり、人間はそれを大事にすべきだと思うからだ。
生き物を殺すと言うこと、それはそのような人間の感情から一番遠い行為のように思えるし、また、そうでなければ生き物など殺せないと思う。それは殺人は無論のこと、人間に近い動物になればなるほど、そうであるはずだ。
人間のそのような「憐れ」「情け」の感情を大事にしようとすれば、そのような行為を各人間が行えるような権利を与えるべきでない、ということになる。
そのように考えると「殺す」という行為を私は簡単には認めがたいのであり、第一点で述べた「捨てる」行為の(敢えて言えば)問題性軽視とによって
「殺さない、殺すくらいなら捨てるだろう」
ということになるのである。
殺すか、捨てるか。二者択一を迫られたとき、あなたならどうする?
もし殺すなら、あなたは坂東氏の意見に...?
さて、またここからが一悶着である。(ちなみに友人との議論は以上まで、以下は私の一人議論だ。)
世の中には侃々諤々の議論になっても、「人それぞれだね」ということで、多様性という言葉の隱れ蓑に入って、自分のスタンスを曖昧にしたり、それで許されるかのように済ませてしまう場合が得てしてある。
だが、この問題については
「考えは人それぞれ」
で済む話ではないと思っている。なぜなら「猫を殺す権利を個人から奪うか否か」決断をする必要があるからだ。
すなわち坂東氏の行為が糺彈すべきだと考えている人々(これを糺彈派と呼んでおく)は、おそらく「猫を殺す権利を坂東氏から奪うこと」に賛成だろう。
一方で全く逆の立場として「猫を殺す権利は飼い主に与えられるべきで第三者がつべこべいう問題ではない」という、むしろ坂東氏の行為に賛同をする人々(積極的擁護派)がいるに違いない。
で、その間に、今回の糺彈騒ぎを微妙なスタンスで見ている人々がいるのであるが、実は「考え方はひとそれぞれだからね」で今回の場合には済まされないのだ。
なぜなら、糺彈派は民主国家であれば猫を殺す権利を坂東氏から奪う法律(ここでは仮に「猫殺生禁止法」と読んでおく)を作る行動を起こすだろうから。
それに対して、猫殺生禁止法に賛成か反対かの意見を決めるのは国民の権利であり、また絶対ではないが暗黙の義務でもあるはずだ。
さてここまで読んだあなたなら、国会に提出された、個人から猫を殺す権利を奪う法律「猫殺生禁止法」に賛成しますか?反対しますか?
無論、人は「猫のみにて生きるものにあらず」。
すなわちこの問題についてはどうしても御自身では白黒判断つけがたく、決断できない、という人も希にいるかもしれません。しかしそれはこの問題の決断から逃げているとは言えませんか?賛成、反対を断固として主張する人々に対して、御自分のこの問題への感覚が「曖昧」とは言えないでしょうか?
あなたの決断で猫を殺す人もしくは猫達の今後の運命が変わるわけです。
さてあなたの意見は?
コメント
最後の問いかけ、面白いです(不謹慎な言い方でしたら申し訳ない)。
俺は、まず間違いなく「猫殺生禁止法」に賛成するでしょう。感情の上では。
ですが、俺は既にそう言った法律が出来た場合に罰せられる側に回ってしまっており、その点で逡巡してしまいます。
別に無為に猫を殺したりしたわけではありません。しかし、大学の実験に於いてかなりの数のネズミを殺しました。
おまけに実験で得たデータは結局役に立たなかった物ですから、結果を見れば無為にネズミを殺したことと同じ事になります。
それがペットとしての動物であるか、実験動物であるかの差異はどうあれ。
ただ、俺は動物を殺すときの感触を知っています。
だからこそ、俺はそれ以上殺したくはない。
それ故、賛成するでしょう。
「猫殺生禁止法」には反対。
牛や鶏の卵など食用として屠殺され食卓へ並べられているのに何故、猫の命だけ特別扱いなのでしょうか?意味の無い法案だと思います。
この話は「充実した「生」の実感は「死」への意識が必要」という点を主張したいのであって、「著者による猫殺し」は「死の実感」リアルに演出するための設定で議論する内容ではないと思います。
生きる意味が不明になりつつある現代社会に対して自の社会的地位も犠牲にして訴える姿勢には賛同しています。
ただ、「猫殺し」に関して本当に事実であるなら責任をとり、世間からの批判も受け止め、獄中からでも執筆活動を続けていくべきだと思います。
私も猫は好きです。
犬は家の防犯のために飼っていますが、猫は写真の被写体としてはカワイイのですが、役に立たないし、猫も所有されることを嫌うと思いますので、飼うつもりはありません。
野生の猫は2年くらいしか生きられないそうです。
病に苦しみ、寄生虫に悩み、びっこを引いていることも珍しくはありません。
実際にはできないでしょうが、捨てるよりも殺してしまう方が正しいと思います。
捨ててしまうと、社会に害を及ぼすことにもなるでしょうし。
主張の内容も理解できる。かなり政治的な観点での議論だと思う。
終始人間本位で議論していたが、最後に猫の感情への配慮を突然加えた点が多少気になる。偽善的で好きでない
猫側への影響を外部効果とするか否かがポイント
初めて書きます。諸々の意見全ては私達人間の感覚をもとに話をしている。そこにはこうであろう、こう思っているに違いない、私だったらこう思う、擬人化した例えで色々に思う。未来永劫猫の気持ちなどわかる筈はない。猫になる事など出来ないのだから。当然犬にも、食用になる牛にも豚にも鶏にもなれない。私は思う、板東氏の子を産む性も本能だろう、しかし、生きる事、すなわち、食欲への本能の方が本来勝ってしまうのではないかと。人間もどんな状況になろうと生きようとする。そう、共食いだってするのだ。戦地で、雪山で、事故でそのような状況に陥ったことはないので私もどう行動するかわからないが。猫は人間の二歳に相当する知能だといわれている。自殺という考えもする事も出来ないだろうと思う。育児本脳も湧くだろう。しかし、状況によるのだ。最悪の中、本能と云うものに順番をつけるとしたら?食って生きる事を私は望むかもしれない。その知能でその状況で生殖器が無くなる事に何か考えるだろうか?だから、生殖本脳だけの為に自分の飼いネコに子を産ませて本来生きる事を本能としている生まれた子猫を処分する事には反対だ。では、堕胎はとなる、なぜ容認出来て?外科的に細胞として見ているのだ。人間もミジンコも生命には違いはない、期間限定で腹の中の小さなそれは知能を持たないミジンコと一緒なのだ。しかし、育つことにより身体の神経も出来る。生まれてくる形になった時には感情こそ曖昧だが身体的痛みは感じるようになつているのだ。崖から投げられる事に怖さは解るとは思えないが、神経はある。呼吸しようとしているのだ。どこかにぶつかれば痛い、ぶつからなくても海の中で苦しむのは想像できる。だから、殺す事に違いはないが、育てる事が出来ないと判断したならミジンコの間に、痛みの神経が育つ前に殺す、生まれなくする選択が良いように思うのではないだろうか。
続き。考えて欲しい。皆精子や卵子をどう思っているのか?猥褻なビデオには精子を顔に擦り飲んだりもする光景がある
。共食いなのだ。生き物の生死を問うならば人間はそこから考えなおすべきではないだろうか?僕は気持が悪くて仕方がない。愛玩動物に関して社会的にどう対応すればよいのか?は今結論出来ない。でも、先に言ったようにどうせ処分なら痛みを感じない内に・・・。自分の気持ちなど感じない内に消滅する方が良いと思う。それが唯一の・・・考えられる優しさかもしれないと思う・・・。これも、もし、猫だったらの話だろうか?この問題は簡単ではないと思う。
「猫殺生禁止法」には反対。
快楽目的、残虐行為での殺傷は禁止すべきであるが、飼い主の責任においてのペットの処分は認められると思う、ペット捨ては迷惑である。
保健所にもっていって処分するのも、自分で間引くのも、避妊手術するのも同一であると思う。
本当の動物に対する博愛と言うのならペットが繁殖すれば子々孫々まで飼い主が面倒を見るが望ましいが現実として不可能である、究極の「猫殺生禁止法」は生類哀れみの令であるが、これは現実不可能である。
であるからやはり、ペットの子だけでなく場合によったっら親ペット自体の生死与奪権も飼い主に責任があると思う。
但し坂東氏による殺傷方法が正等であるかは微妙であろうし、まずは引き取り先を探すとか努力をした上で殺処分を選択すべき責任もあるとは思う。