この件についての私の意見は本頁の他に
[雑記] 2.あなたなら捨てる?それとも殺す?
https://blog.stakasaki.net/article/200609article_2.html
でも書いている。
また他の方が書いたブログ記事の紹介、関連リンク集などを
坂東眞砂子氏コラム「子猫殺し」関連のまとめ
にまとめており、そこでの紹介、分類もある程度、私の意見を反映したものと言えよう。
なお板東氏の元記事についてはこちらに転載してある。
私は猫が好きなのだけど、mixiの猫関係コミュで以下の情報が流れた。作家の坂東眞砂子という人がこちらのようなエッセイを書いたそうだ。
もうなんちゅーか~。この坂東真砂子という考え方はどう見ても捻くれているように見えてしまう。すでにネット上でもいろいろ書かれているのだけど、私も以下、とりあえず考えたことを書いてみよう。
避妊手術についての違和感は分からないでもない。
というのも、私が中学生だったときに飼猫の去勢手術をすることになったのだが、最初私は反対したからだ。猫にとって大事なモノを奪ってしまう、なんかそんな気がしたので反対した。けれども結局家族に説得され、同意した。
その時点で去勢手術をすることに対して納得したし、その後も
「悲惨な境遇の猫が生まれるよりはマシ」
という考え方で、むしろ去勢手術や避妊手術に大いに賛成している。
その結果、上の文章を読んだとき
「いろいろ書いてるけど、なんだか本質的には結局、中学生が自分だけで出す結論と同レベルの発想だな」
と思ってしまった。本当に大人として考えた結果なのか、いろいろきちんと見識を持っているのかを疑う。
この人が根本的にオカシイと感じるのは
「人間」「それと共生することで生きている犬や猫」
の自然界の中での特殊性を本質的に理解していないという点だ。。
人間はもはや単なる自然界の動物の一つではない。先日コミックとして紹介した岡崎二郎氏の漫画に
『国立博物館物語』
というのがあり、芸術メディア百選にノミネートされているが、それを読むだけで分かる。
人間は今まで地球上に生まれた生物の中で
「遺伝子の呪縛から解き放たれた最初の生き物」
なのだ。その結果、遺伝子の作用と偶然だけで歴史が作られる自然界とは決別することになった。
そして動物の中の多くは人間から追われたり、滅ぼされたりしたが、犬と猫などの動物だけは人間と共生することを選択したと言えるのだ。
だから
> 愛玩動物として獣を飼うこと自体が、
> 人のわがままに根ざした行為なのだ。
> 獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、
> 自然の中で生きることだ。
この見方がとてもオカシイと思うのである。もし本当に犬や猫の「生」というものが、人間の干渉なく自然の中で生きることなら、人間の餌を盗んだり、おねだりしたりはせず、山や原生林に逃げ込んでそこで生活するはずであろう。
人間界の中で、人間と共生しようとしたり、あるいはそれに近いところで人間のおこぼれの食物を貰いながら生きる、それが犬や猫という種の選択した「生」と言えるはずではないか。
そもそも世の中「自然」というものがどれだけ残っているのだろう?
知っている人も多いと思うが、稲や小麦というのは自然界でとてもオカシイ、奇形な植物である。というのも、あれだけ狭い場所に密集して同じ植物が育ち、しかもそれらのほとんどが次世代の実を付ける、というのは人間が作り出す前の野生の種ではありえなかったからだ。
すなわちそれは「自然なこと」では全くない。人間が品種改良を重ねて、そのような植物が生まれたのである。
だから田舍の、農作物が豊かな、畑や田んぼの多い土地を見て
「自然が豊かだ」
ということを考えるのは非常に間違ったことなのだ。人間はもはや農業で生きる知恵を身につけた時点で、自然界のそれまでの枠、すなわち遺伝子の呪縛から解き放たれたと言える。
この坂東眞砂子氏というのは、そういう自然界の人間という生物の特殊性を根本的に理解していない気がする。人間が特殊である以上、そこと共生を図る生物も自然界の原則とは違うことを念頭に置くべきだろう。
今回の暴論「子猫殺し」がどんなに薄っぺらい見方かは、岡崎二郎さんの漫画を読むだけで分かる気がする。未読の方には是非勧めたい。
岡崎二郎
「国立博物館物語 1~3」
「Neko2(ネコネコ) 1~2」
今回のこの件であるが、板東氏の行為と理論を批判する際、猫を人間で置き換えた場合を述べている場合がある。一方で、猫の場合と人間の場合を同列に論じるべきではない
として、猫に対する行為を人間で置き換えることの不当性を述べているものがある。
同列に論じるべきではない、という意見は理解でないこともない。その一方で、私は今回の板東氏のコラムの中では、人間相手である「殺人行為」と同レベルの「臭い」を感じてしまうのだ。
誤解を恐れずにさらに言えば。
私は「無限回廊 endless loop」というサイトで過去の様々な殺人事件について、事件の背景や犯人のプロファイルに興味を持ったことがある。
それらでの話によると、猟奇殺人を行うような人物の経歴には、しばしば動物虐待の兆候があるらしいのだ。日本での最近の例で言えば「神戸連続児童殺傷事件」で事件前に猫が殺されていたということがあった。
私がここで言いたいのは板東氏がその類の人物だということでは決してない。そうではなくて、私が言いたいのは、動物を「殺す」とりわけ人間社会の身近にいるような動物を殺すという行為には「たかが猫」「たかがペット」では済まされない、それ以上のものがあるような気がしてならない、ということである。
それを感じるのは恐らく私だけではないと思う。
というのも、板東氏はコラムの冒頭で「世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう」と書いているわけであるが、今回のコラムに声を挙げた人々がとりたてて「世の動物愛護家」に該当する人々ばかりだとは思えないからだ。
板東氏のコラムにはどこか、あたかも自分だけが、自分の飼っている生命に関する決定権を持っているかのような、あるいはそれで決定した内容が絶対的に正しいものであるかのような、そういう傲慢さがあるように思うのだ。
別な例を持ってくれば、諸処の事情で無理心中を図る母親と同じ臭い、とでも言えようか。
何はともあれ、あの短いコラムで板東氏が言いたかったことが尽くされているとは思えないし、思いたくもない。これだけ騷ぎが大きくなって、そして反響を呼んだ以上、何らかのコメントを公開するのが文筆家であろう、彼女の義務なのではなかろうか。
2006/08/23 作成
2006/08/31 改訂
2006/09/22 タイトル改変
2006/09/24 子猫殺し記事整理の為、投稿日付変更
コメント
坂東眞砂子=ホラー作家
坂東眞砂子というホラー作家が、18日(火)の日経新聞夕刊のコラムで
日常的に子猫を殺しているという告白をして、話題騒然となっている。
問題の記事の全文がこちらに掲載されているので、興味のある方は
まず読んでいただき
こちらの記事を遅ればせながら読ませていただきました。私個人としては、ここのあなたのご意見には全面的に反対です。正直、坂東氏の見解の方に同意見です。ただ、ある意味、坂東氏の意見に対する見解の違いはこの辺に由来するのかなとも思います。ありのままの自然をあくまでも求めようとする立場と、自然でないことを自然と思う姿勢との差です。
続けてのコメントすいません、書き込んでみたものの、後半の意見は必ずしも私の意見の正確な反映ともいえないみたいな気がします。もう少し考えますね。
変質者は自分と同じ匂いの者をかぎわけるらしい。
猟奇殺人については、私にはわからないが、きみがそういうならそうかもしれないな。
nekoさんというのは管理人さんなのですか?
いえ、私自身たしかに自分がまともな人間だとは思っていませんが、私は蚊を殺したくないから夏でも蚊取り線香を絶対に使わないという、比ゆでなく虫も殺せないという方向での変質者です^^。そういう人間には、むしろ坂東さんの行動を理解が出来るのです。
>M.FUKUSHIMA 様
> nekoさんというのは管理人さんなのですか?
違いますよ。neko様の記述は猟奇殺人の話を出した私に向けて書かれたものだと思っております。