私が現在、作品を楽しみに、というか特に今後の成長を楽しみにしている日本のアニメ作家が二人いる。それは細田守と新海誠。
(アニメといってもどちらかというとジャパニメーションの分野での話だが。)
先日、新海誠氏の新作「秒速5センチメートル」を観に行ったので、これを機会に細田守氏のことや、新海誠氏の作品について書こうと思う。
だが新海誠氏のアニメ史における位置づけを考えるためにはアニメについて少々論じる必要があるので最初のこの記事はそのような内容になるだろう。
[「時をかける少女」の細田守]
私が注目するアニメ作家二人のうちの一人、細田守氏は昨年の夏「時をかける少女」を監督として制作し、大規模な上映でなかったにも関わらず、口コミが口コミを呼んで非常に評判になった。
氏は今まで、完全にオリジナルに近い映画の監督を務めたことはなく、監督経験は
劇場版『デジモンアドベンチャー』
劇場版『ONE PIECE THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島』
の二作だが、私はこれらは未見だ。
これらも気になってはおり、評判も良いらしいが、しかし両者とも私はもともとのアニメ作品すなわち「デジモンアドベンチャー」「ONE PIECE」を知らない。またあまりそれらを好きになれそうにも感じない。
しかし彼のアニメ「時をかける少女」を観てこの人は凄い人だと思った。
アニメーションというものはそれが素晴らしい場合、必ずしも監督一人の功績ではないのだが、しかし監督が碌でもないのに良い映画になることはまずないと思う。
アニメーションというのは本当に不思議な芸術(表現手法)であり、現在巷で主にセルアニメの場合、大抵は一人では制作が困難だ。(その困難なこと恐らく実写映画以上である。)
その結果、監督は多くの人々(クリエーター)を使うことが要求されるわけで、すなわち優秀なジェネラリストであることが必要である。
ところがアニメーションに拘わる人々はいろいろ形で作業に参加する。
具体的に言えば「絵を描く」原画や動画、背景、「ストーリーや表現手法」を決定する演出、現在ではなくてはならない「音を作る」音楽関係、などである。(一般に映画では映画監督はそれ自身だ。)
そしてこれらは基本的に専門職と言って良い。
すなわちアニメに携わる多くの人というのはプロフェッショナルな人々なのであり、通常はそのような一人として地道に参加していくことになるわけだが、そんな中でそういうプロフェッショナルな人々と話し合い、また彼らに指示を出し、全体をまとめていくというジェネラリストの才能も身につけた人だけが、優秀な映画監督=演出家になれるのである。
どんなに優秀なスタッフが参加していても、また金銭的に恵まれていても、素晴らしい映画が出来るとは全く限らない。そんなことは昔から当たり前なのだが、ジブリの「ゲド戦記」はそのことを改めて示していると言えるだろう。
ともあれ、そんな中でアニメーターの経験をもち、そこから演出に進んだ細田守氏は経歴を観るだけでも十分な可能性を秘めているわけで、その作品があのように出来たとなれば、単にこれが偶然の産物ではなく、今後の作品も期待しないではいられないということだ。
[「ほしのこえ」の新海誠]
さてもう一人が新海誠氏なわけだが、現段階では彼は細田守氏よりも恐らく有名である。
彼がその名を成さしめたのは「ほしのこえ」という作品だ。何が一番衝撃をあたえたかというと、30分のセルアニメをほとんど一人で作ってしまったことである。
[アニメーション全体におけるセルアニメ]
所謂アートアニメーションの分野ではコツコツと一人もしくは少人数で作品を作ることはそれほど珍しいことではない。それに対して日本で著しい発展を見たセルアニメ作品(ジャパニメーション、anime)は個人で作るには非常に不向きとされてきた。
というよりも、それなりの人数を使って、工場のようにアニメをポコポコ作り出す方法としてセルアニメが開発され、それが広まった結果、多くの人がアニメーションと聞いたときにセルアニメを浮かぶようになったくらいなわけである。
(しかし私が「アートアニメーション私的調査室」で書いているようにセルアニメはアニメという技法を使った映像作品のほんの一ジャンルにしか過ぎない。)
そのような経緯上、セルアニメを個人で作ることはかなりの無茶だと考えられてきたし、あるいはセルアニメを一人で作っても表現技法としては注目されにくくなり、それが一層個人でセルアニメ(もしくはそれに見えるようなアニメ)を作ることを躊躇わせてきたと言って良い。
[「ほしのこえ」とCGという手法]
それに対して真っ向から取り組み、そしてかなりの成功を収め、それにより名声を博したのが2002年に「ほしのこえ」を生み出した新海誠氏である。この作品は30分程度の25分だがその制作期間は「たった」7ヶ月と言われる。
それを可能にしたのはコンピュータすなわちCGの最大限の利用であった。
今までセルアニメと述べてきたが、実はこの十数年でセルアニメと言ってもセルは使われなくなり、コンピュータを使うことが広く普及してきており、私が書いているのは「セルアニメ的なアニメ」であることに注意して頂く必要がある。
これは考えてみると不思議な話で、そもそもセルアニメが普及したのは「大量(もしくは長時間)のアニメを安く、大規模に作りたい」という需要に基づくものであり、そしてセルアニメの性質上、二次元的な、のっぺりした画面になってしまうのはセルアニメ故の欠点であった。
ディズニーや東映動画、そしてスタジオジブリなどのクオリティの高い作品を作る際に、セルの限界を背景の緻密さや表現方法でカバーしようとし、それが実際成功してきた。
このような状況のところ1990年代からコンピュータグラフィックスが登場するとややこしい事態になってきた。すなわちセルアニメがセルアニメらしいのは、セルアニメという手法の限界だったのに、CGはそれを打破することが可能になり、その結果の一例はディズニーの長編映画「トイ・ストーリー」という形で結実する。
ところが多くの人はこれをセルアニメに取って代わるアニメ手法だとは見なすことが出来なかった。むしろ新しい技法のアニメとして受け取ったに違いない。
すなわちセルアニメの特徴は、それがセルによる限界ではなく独特の、ユニークな形と見なされたのである。その結果、セルアニメの発展した日本ではその後も「セルアニメ的なアニメ」は全く衰えることなく、むしろコンピュータの活用によってコストを抑えることが出来るようになり、一層の大量生産の時代に突入する。
一部の人は当然気がついていると思うが、一昔前に比べるとコミックのアニメ化が非常に大量に行われるようになった。昔は漫画のアニメ化というのは、本当に評判になった漫画・コミック作品のみがアニメ化される傾向にあった。
ところが現在、少しでも人々に受け入れられそうなコミック、漫画が登場すると非常にあっさりとアニメ化されるようになったのだ。しかもコミックや漫画が完結していない時点でアニメ化されるものが後を絶たない。
[CGのたどり着いたところ~ジュラシックパーク]
一方でコンピュータグラフィックスを活用するようになったのは実写映画のプロダクションである。すなわちコンピュータグラフィックは本来は「アニメーション」なわけであるが、それが実写に代わるほどの表現が可能になり、そして従来の実写に取って代わることになる。
その一つの形が1993年に作られた「ジュラシックパーク」である。
「ジュラシックパーク」への流れは、レイ・ハリーハウゼンの特撮映画、ジョージルーカスの旧「StarWars」の流れでたどり着く一つの終着点であった。
すなわちレイ・ハリーハウゼンはストップモーションアニメーションと呼ばれる手法で、娯楽性の高い、優れた特撮映画を生み出し、それは実写映画の中で根強い人気を誇るようになった。(日本の特撮が、着ぐるみの、子供だましの映像しか作れなかったのと歴史を大きく異にする。)
スチーブン・スピルバーグは当初「ジュラシックパーク」を従来のコマ撮りアニメで撮影することを検討したが、結局、当時ようやく実用段階に達していたコンピュータグラフィックスの全面的導入を決心した。
非常に興味深いことに「ジュラシックパーク」のDVDには従来のストップモーションアニメで作った際のテストフィルムが映像特典としてついており、ジョージルーカスが同じ映像をストップモーションアニメとコンピュータグラフィックでそれぞれ作ってみた上で、コンピュータグラフィックを採用したことが手に取るように分かるだろう。
この映像が象徴するように「ジュラシックパーク」はコマ撮りアニメの死亡宣告であり、CGによる新時代の幕開け作品だったと言えよう。(なお恐竜のシーン全部がCGではなく、アニマトロクスすなわち模型ロボットの比率が高かったようだ。)
[アニメ的なアニメは生き残り...]
アニメによる表現というものが、究極的にはもともと「実写出来ない」場合の簡略的な表現手法として登場したことを考えると実写映画でのCGの活用すなわちCGがコマ撮りアニメや操り人形に取って代わったことは、表現作家の一つの夢の結実であったに違いない。
しかしアニメの歴史100年を経て必ずしもアニメが実写映画の「代替品」ではないことが人々の中に根付くようになった。言い換えれば(CGを使って何でも表現できるようになった)実写映画が「完全に」アニメに取って代わるものではないことが判明する。
それは写真技術が登場しても、世の中から絵画がなくならなかったことを考えれば当たり前かもしれない。
そしてそうである以上、「トイ・ストーリー」的な新しい形のアニメではなく、セルアニメ的なアニメ制作の省コスト化にコンピュータを使うことはある意味、当然であった。
話が随分逸れたが、そのような「コンピュータグラフィックの活用」によって従来は「個人では膨大な労力を作るだけの価値がなかったセルアニメ的なアニメ」を個人で作ってしまったのが新海誠氏だったのである。
(後編につづく)