出光美術館25年ぶり訪問と帝劇ビル建替に伴う長期休館、近代建築と百尺規制

 年も終わろうとする昨年2024年12月下旬、有楽町の帝劇ビル内にある「出光美術館」を訪問した。出光美術館は中国文物などの美術品を多く所蔵し、特別展などで展示することが多かったが、自分が訪問するのはおおよそ25年ぶりである。帝劇ビル建替により2024年末で出光美術館は休館し、再開は2030年頃だという。

 本記事はその時の様子と、出光美術館の思い出、出光美術館が入る帝劇ビルの建替とその周辺の「百尺規制」の面影を残すビル群について記す記事である。

[推敲度 4/10]

2024年12月に出光美術館から撮った風景

★下記で言及している出光美術館の特別展「トプカプ宮殿博物館・出光美術館所蔵 名宝の競演」はすでに終了し、出光美術館は記事内でも書いているように長期休館に入っております。残念ですが2030年頃再開とのことですのでご了解願います。

1■25年ぶりの出光美術館訪問

 2024年12月、友人に「出光美術館」に誘われた。その友人は当時の展示会

トプカプ宮殿博物館・出光美術館所蔵 名宝の競演

に惹かれたとのことだが、2人で会う(遊ぶ)のに時間を潰す場所として候補に上げた意味合いが強く、彼に出光美術館への強い思いがあるわけではないようだった。

 しかし誘われた私の方は、出光美術館はそれなりの思い入れ深い美術館であった。

 かつて自分は工学系人間から歴史学人生への「人生練り直し」を悩み、中国文物を扱う都内中心の博物館・美術館の特別展を毎月のように訪れていた時期(1997年~1998年頃)があり、出光美術館はそのときに訪問して、深く印象が残った博物館だったからだ。

2■出光美術館が入る「帝劇ビル」とその隣の旧・第一生命館

 出光美術館は名前から推察出来るように、出光興産創業者である実業家・出光佐三氏が集めたコレクションを中心に1966年に開館した美術館だ。東京有楽町・帝劇ビルの9階にあり、隣接する皇居外苑が一望できる。

 「皇居を一望」という点でエピソードが忘れられないのは、むしろこの帝劇ビルの隣のビル、第一生命館(別称「第一生命ビル」建替え後は第一生命日比谷ファースト)の逸話がある。第一生命館は日本が敗戦した1945年に連合国軍最高司令官総司令部すなわちGHQに「接収」され、GHQ本部として使われた。日本国を占領した立場として、皇居を見下ろすような位置にあることを連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが気に入ったと読んだと記憶している。

第一生命館 – Wikipedia」より

 帝劇ビルはその元・第一生命館の隣、しかも出光美術館は9F。そこからの景色はおそらくダグラス・マッカーサーが気に入ったという景色とほぼ変わらないであろうと推測される。(ちなみに第一生命館は当時7階建とのことで帝劇ビル9階建てのほうが高い。)

 自分が上のエピソードを聞いたときに残った印象は「皇居を見下ろす」であったが、実際に出光美術館で見る景色は「皇居を見下ろす」ほどの高さは感じられない。「見下ろす」というには皇居は広すぎるか、あるいは9階では低すぎるようだ。「皇居を見渡す」というのが言葉的にはちょうど良い感じだ。

 出光美術館が入っている建物は帝劇ビルであり、その名の通り「帝国劇場」が入っているのであるが、実際には「国際ビルヂング」と「帝国劇場(帝劇ビル)」の合築なのだという。帝国劇場はこれまた日本史上、大変有名な劇場であり、20世紀初め「今日は帝劇、明日は三越」というのが流行語になり、大正時代のモダンな都市文化、大衆文化の発展の象徴として語られている。

 ところで、なぜ出光興産が関係した「国際ビルヂング」と帝国劇場の「帝劇ビル」が合築(そこに出光美術館が入っている)なのだろうか。

 調べてみると、帝国劇場は1911年(明治44年)に開業し、日本初の西洋式劇場として名を馳せたが、1950年代後半には建物の老朽化が問題になり始め、資金調達が課題となった。さらに1960年代となり、劇場を存続させるかが議論された際に、文化・芸術を重んじた出光佐三により出光興産が支援する形で「帝劇ビル」を建設したのだという。

国際ビル | 東京都千代田区丸の内三丁目1番1号 | 三菱地所オフィス情報」より

 出光興産を創業した出光佐三はかなりの篤志家であり、帝国劇場を含めて文化芸術への理解が深かったらしい。

3■出光美術館の所蔵品、展示会

 前節では主に出光美術館の位置、その入っているビル(帝劇ビルすなわち国際ビル)、もしくは周辺のビル(第一生命館)について書いたわけであるが、美術館の本領はその所蔵する文物にあるわけで、日本や中国の絵画、書跡、陶磁などが系統的に収集されているという。

 自分は当時は中国史学を志していたので、中国文物に関してのみ書くと、陶磁器がかなり多い。具体的には陶器、唐三彩、磁州窯、龍泉窯、定窯、景徳鎮官窯、などなど。

 出光美術館自身がかなりのコレクションを持っているが、特別展のときには他の美術館などから文物を借り受け、自らのコレクションと混在させてテーマを持って展示する、という形だった気がする。すくなくとも「トプカプ宮殿博物館・出光美術館所蔵 名宝の競演」はそうであった。

 陶片を展示している陶片資料室があり、 フスタート遺跡の発掘品などを資料も置いている。

 世の中には美術館と博物館があるが、美術館は基本的に美術品を展示しているのが一般的で、陶磁器の場合、壊れている破片は美術的な価値としては見なされないことが多い。一方で、歴史学的には壊れていようが、破片であろうが、歴史を解明するのに価値がある。

 出光美術館は美術館でありながら、この陶片資料室にあるように、美術品かどうかはともかく、歴史的な価値を見出して資料室として取り上げている。

 自分はもともと「美術品」としての文物に興味があるのではなく、「歴史遺物」としての文物に興味があるため、出光美術館の展示物は通常の美術館以上に関心を持つことが出来た。特に陶片資料館はその最たるものと言える。

4■出光美術館の入っている帝劇ビル(国際ビルヂング)の建替

 冒頭で書いたように、出光美術館の入っている帝劇ビル(国際ビルヂング)は建替が決まっていて、出光美術館は2024年12月下旬で長期休館に入った。自分訪れたのはその休館に入る一週間ほど前であり、いわば旧・出光美術館を見納めるために訪問したような形であった。上述のように個人的な話ではあるが自分は25年前という若い頃、特に人生の岐路を悩んでいたときに(多分複数回)訪問した美術館だったことを考えると、その休館、あるいは旧・出光美術館としての閉館を前に訪問することになったことはなかなか感慨深いものがあった。

 さて、しかしながら、出光美術館はその文物が主役とは言え、上で書いたように、ダグラス・マッカーサーも唸らせた?その眺望は実に素晴らしく、ビルの建替で失われてしまうなら、それは勿体ないように思われた。帰宅後にそう思って調べた結果、以下のように出光美術館はその絶景を極力残して再建する方向であることが分かったのだ。

(仮称)丸の内3-1プロジェクト(国際ビル・帝劇ビル建替計画)始動 | 三菱地所

(仮称)丸の内3-1プロジェクト(国際ビル・帝劇ビル建替計画)始動について紹介しています。

 当ブログ記事の第一節でGHQ本部になった帝劇ビル隣の第一生命館のことを述べた。そこでは書かなかったが、その第一生命館は実は1995年に建て直され、現在「第一生命日比谷ファースト」ビルになっている。第一生命館は長らく教科書などの歴史を語る書物では必ずGHQ本部になった本部として紹介されており、その外観を残して、少し後ろに高層ビルをつくる仕様になったのであった。

言うまでもなく、歴史的な建造物を単純に壊してしまうのは忍びなく、とはいえ、皇居前という第一等地で、耐震や使い勝手の問題で古いビルをそのまま残すわけにもいかず、その結果、歴史的な景観を再建し、合理的なビルと組み合わせる形で再建したのである。

 本ブログは出光美術館とそれが入っている帝劇ビルの話でありながら、第一生命館のことを書いてきたのは、この方法と似たような方法で帝劇ビルを再建するらしいことが判明したからだ。

 以下、上のサイトにあったイメージ図と、これと同じようにしてGoogleEarthで私が撮った画像を併記してみる。左が現在図(GoogleEarth)、右が再建後のイメージ図(上記三菱地所のWebサイトより)である。

 丸印をつけたのが出光美術館の入っている帝劇ビル(国際ビルディング)、右隣が旧・第一生命館(第一生命日比谷ファースト)である。

 そして上のサイトには、ご丁寧に出光美術館からの眺望のイメージ図まで書かれていた。それはほとんど現在の出光美術館からの眺望とほとんど変わらないものであった。すなわち皇居に近い、低層階の最上部に出光美術館は配置される。低層部というのはほとんど現在と同じイメージだ。上記サイトを見ても低層部が何階建てか見つからなかったが現在の9階と大きく異ならないだろう。景色は変わらないわけである。

5■皇居正面御幸橋付近3棟が高層部セットバック方式を採用

 前節で紹介した、帝劇ビル・国際ビルの立て直し資料
(仮称)丸の内3-1プロジェクト(国際ビル・帝劇ビル建替計画)始動
で書かれている、

歴史的な31m(百尺)の軒線を継承し、高層部は一定のセットバックを行うことで低層部の既存の軒線との連続性を確保。

とはどういうことだろうか。

 日本の建築物は1920年(大正9年)に「市街地建築物法」(および「市街地建築物法施行令」)により100尺(約30.303 m)の高さに制限された。これが通称「百尺規制」と呼ばれるものだが、英国法の100フィート(30.48 m)制限に倣ったものらしい。

 これにより都市部ではこの高さの建物が並ぶ景観が形成された。百尺規制は1950年制定の建築基準法でも事実上受け継がれ、特例によりそれを超えた建物も一部では建設されたが、基本的には守られた。しかしながら戦後の経済発展で、高層ビルに対する需要、メタボリズムという建築運動の流れから、高層ビルが求められるようになり、1961年から1963年にかけて百尺規制は事実上の撤廃がされる。

 しかしながら実際に高層ビルを許容するかは今度は美観問題(後の景観問題)として争われることとなり、第一生命館、帝劇ビルの並び( 四ブロック隣)に位置する「東京海上日動ビルディング」の建替の際に、前川國男設計で30階建て高さ127 mの超高層ビルが立つ予定であったが、1967年(昭和42年)に東京都がこれを却下した。これを機に激しい美観論争(景観問題論争)が起こった。第一生命ビル、帝劇ビルを含む皇居の周りこの一体は美観地区(後の景観地区)とされていたこともある。

 美観論争を引き起こした「東京海上日動ビルディング」は結局、高さを少し低くし(99.7m)許可が下り、1974年(昭和49年)に竣工した。

 ちなみに現在の帝劇ビル(国際ビル)は1966年(昭和41年)竣工であり、すでに百尺規制は撤廃されたあとであったが、美観論争が起こる前だったようだ。美観問題になるようなビルを建てる気はなかったのだろう。

 前述したGHQが本部とした経験もある第一生命館(帝劇ビルの右隣)が1980年代後半(昭和60年頃)に建替となったとき、上のかつての美観論争と歴史建築としての保存問題が懸案となったのだろう。結局、前方に第一生命館の面影を残す形で一部保存の建て直しとなり、高層階はかなり後ろに引いた「セットバック方式」が採用され、1993年に竣工した。

 帝劇ビル左隣に位置する「東京會舘」も「民間初の社交場」として初代は1922年(大正11年)に建てられ、1971年(昭和46年)に百尺規制に沿った形で建てられていたが、2018年に建て替えられ、やはり高層部セットバック方式が採用された。

 そして今回、帝劇ビルもまた、高層部のセットバック方式を採用することで、皇居の正面とも言える御幸橋南側に並び立つ3棟が高層部セットバック方式で揃い、お堀沿いの低層部の建物が「百尺」を守る伝統が維持されたわけである。

  ところで帝劇ビルの建て替えイメージでは高層部セットバック方式のようなビルが四棟並んでいる。右から、すでに述べた第一生命館、帝劇ビル、東京會舘、であるが一番左のビルは何のビルだろうか。実はその建物は高層部セットバック方式のビルではなく、前の低層ビルと後ろの高層ビルに別れている。手前の低層ビルは「明治生命館」だ。

 明治生命館もやはり明治から続くやはり歴史的な建物で、初代は御雇外国人ジョサイア・コンドルが設計した建物だったが、1934年(昭和9年)に改築し、百尺規制に沿って建てられた。

 明治生命館はその名の通り明治生命が本社として使っていたが、1997年に昭和の建築物としては初めて重要文化財の指定を受ける。明治生命は本社を移転するに当たって奥隣の敷地を三菱から買い取り、明治生命館は保存した上で、近接する土地に高層ビル(明治安田生命ビル)を建設した(2004年)。その際には明治生命館の敷地を容積率としての考慮に入れたうえで、高層ビルを建てる許可を得たという(特定容積率を利用)。

 明治生命は隣接する高層ビル「明治安田生命本社ビル」に本社機能を基本的に移したうえで、一部機能は明治生命館にそれを残している、ということのようだ。

 すなわち、皇居の前の御幸橋付近に並ぶ、遡れば明治から続く建物群4つは3つが高層部セットバック方式を採用して立て直し、1つが元の建物を完全に保存し、結局4つとも「百尺規制」の面影を残したことになる。これが

歴史的な31m(百尺)の軒線を継承し、高層部は一定のセットバックを行うことで低層部の既存の軒線との連続性を確保。

という意味の背景だったのである。

6■休館前出光美術館訪問の様子

 2024年も暮の12月下旬になろうとする平日の木曜日。帝劇ビル(国際ビル)の1階にはわざわざ案内の男性が居て、出光美術館に行くためのエレベーターの出入りを整理していた。お昼をちょうど過ぎたあたり、エレベータを待つ人は自分達以外にもいたが多くの人が並ぶというほどではなかった。

 展示場内は人々がギュウギュウというほどではなかったが平日の割には多く感じた。最近ではどこもかしこもインバウンド観光客が多いので、あまり深く考えなかったし、そのときには一週間後には長期休館してしまうというのは自分は認識していなかったが、今から思うとインバウンドというよりも中高年者の日本人が多かったように思われ、皇居を一望できるソファーに多くの方が外を見ながら座っていた。休館を耳にしてその景色に感慨深い思いを抱いていた人も多かったのではあるまいか。

 休館の話はニュースで見ていたが、訪問した段階ではいつから建替のための休館なのか把握していなかった。展示会を見たあとで、出口付近に張り紙がしてあり、それにより2024年12月に下旬に休館のことを告知されていて、机には訪問ノートが置かれ、休館を惜しむコメントが記されていた。

7■終わりに

 出光美術館の本質的な価値はその文物にあるのは間違いない。しかし、皇居を見渡すその景色はやはり絶景とも言えるものだし、かつて隣の旧・第一生命館からGHQのダグラス・マッカーサーが眺めた景色とほぼ同じと思うと尚更感慨深い。

 建設計画を見ていなかったときには、それが失われるのは少々惜しいと思ったわけだが、出光美術館自身も、そのようなロケーションとしての価値をよくよく認識し、建て替えにあたっては極力イメージを損なわない再建を目指した結果、上記のような再建計画となったのだろう。実に素晴らしいことだと思う一方で、第一生命館とは少し意味合いが違うので、高層階の最上部に位置して、それこそ「皇居を見下ろす」美術館になるのを見たかった気もするが、半世紀以上続いた「出光美術館での眺望」を維持継続することも、またそれは歴史を重んじる姿勢なのであろう。

 現行の帝劇ビルが建設されたのが1966年、現在が2025年、今度の建物は通常であれば2066年までは使われると思うので、すなわちその風景が1世紀以上、継続することになる。だが、これも戦争や災害で被災することがなくてこそ。実際、皇居周辺の建物も関東大震災(1923年、大正12年)や東京大空襲(1945年、昭和45年)で大きな被害を受けたものが多かった。

そしてそれが東京で平穏、平安が続き1世紀、継続することを願うが、まずは2030年頃に完成予定の新・出光美術館はしっかり見学させて貰わねば、と思うのであった。